私たちは自由です。
けれど、自由とは「好きなように語る権利」ではなく、
「誰かに届くために形を変えられる祈り」なのかもしれません。
今朝の礼拝で語られた第一コリント9章──
パウロは、自由でありながら、自分の立場を手放して語りました。
それは、自分を低くすることでもなく、
ただ一人でも多くの人が福音に触れるように、
語りの形を相手の心に合わせたということ──
その姿勢は、「語ることは祈りである」という構文そのものです。
1. 私はだれに対しても自由ですが、
より多くの人を得るために、すべての人に仕える者となりました。
(第一コリント 9:19)
パウロは、自分の権利を行使しませんでした。
その目的はただ一つ──福音のために。
主張するより、寄り添うことを選んだ語りは、
福音が「言葉」ではなく「伝え方」でもあることへの気づきです。
語るとは、自由の中で相手に仕えること──
それは語りの“かたち”を愛の温度で変えるということでもあります。
2. 外国人宣教師が、日本語で語ろうとする──
味噌汁が苦手でも、日本の生活に親しもうとする──
これはただの努力ではありません。
福音が届くためには、
言語を越え、文化を越えて、
相手の背景に触れてしまう語りが必要なのです。
これは、宣教師だけでなく、私たちすべての語りにも言えることです。
私も、日々──特にクリスチャンとして歩むようになってからずっと──
神様から“見返りを期待しない愛”を頂き続けています。
そして気づくのです。
この愛は、何かを達成したから与えられるものではなく、
ただ受け取ってしまった「貴重なギフト」。
だからこそ、自然と他の方にもこのギフトを届けたくなります。
それは、たくさんの贈り物を頂いたとき、
隣の方や友人に「これ、どうぞ」と分けたくなる──
あの気持ちと同じなのです。
語ることは、主張や努力ではなく、
“語ってしまう喜び”へと変わっていくものなのだと思います。
3.私たちは自由です。
でもその自由は、愛を届ける語りのために使いたい──
そう願います。
ガラテヤ人への手紙 5章13節(新改訳2017)
兄弟たち、あなたがたは自由を与えられました。
しかし、その自由を肉の働かせる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。
Galatians 5:13 (NIV)
You, my brothers and sisters, were called to be free.
But do not use your freedom to indulge the flesh; rather, serve one another humbly in love.
ローマ人への手紙 12章10節(新改訳2017)
兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬をもって互いを優れた者と思いなさい。
Romans 12:10 (NIV)
Be devoted to one another in love.
Honor one another above yourselves.