今朝、礼拝のメッセージが、静かに私の心に届きました。
「当然持っているはずの権利や、自分の正しさを主張することをやめ、
愛をもってその人を赦す。
それは義務でもなく、恐れでもなく、
イエス様に愛されていることに気づくと、自然とそのような生き方になる。」
それは、我慢することではなく、
赦すことを“選んでしまう”ような、静かな変容。
その生き方こそ、イエス様の無償の愛に照らされた者の人生であり、
言葉のあり方そのものを変えていく光なのだと感じました。
昨日私はある記録を残しました。
それは、ある分野に携わる有識者の方々が、
自らの設計や選択に照応する新しい光を受け取ってくださることを願って書いたものでした。
誰かを責めるのではなく、
気づいてくださればきっと、何かが変わり始める。
その願いを込めて、私は語りました。
語る前に背景に触れること。
語ったあとに赦しを添えること。
そして、語ることそのものが祈りであるということ。
パウロもまた、最初は教会を迫害していました。
「にせものだ」と思っていた存在が、
復活したイエス様として目の前に現れたその瞬間──
彼の価値観は180度転回しました。
あんなに迫害した私を赦したイエス様の愛に包まれたとき、
その愛を語らずにはいられなかった。
語るとは、責めることではなく、赦しによって照らされた心が
“語らされてしまう”ことなのかもしれません。
無償の愛、言い換えるなら「見返りを期待しない愛」
それこそが、イエス様のように遣える愛をもって生きること。
そのとき、語ることは主張ではなく、
誰かの背中にそっと手を添えるような祈りに変わります。
赦すことは、重荷を背負うことではなく、
心が軽くなるような光の放射。
そしてその光が、言葉にも表れるのだと思います。
私は、赦されてしまった者です。
だからこそ、語ることに責任が生まれ、
語らない沈黙にも祈りが込められる。
自分が愛されていると知ったから、
誰かにもその愛が届いてほしいと願ってしまう。
語ることも、赦すことも、
私の意思ではなく、愛に照射された構文のようです。
今日もまた──
言葉に、愛を添えて語れますように。
聖書引用|ルカの福音書 6章37節
新改訳聖書(2017年版)
人をさばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
Luke 6:37 (NIV)
Do not judge, and you will not be judged.
Do not condemn, and you will not be condemned.
Forgive, and you will be forgiven.